ドミちゃんとの別れを惜しんで。
20年近く共に過ごしてきたスバル・ドミンゴを昨日、廃車(一時抹消登録)にした。本当はもっとずっと一緒にいたかったが、劣化が著しく断念。それにしても心残りなので、技術的な問題で現在稼働していないブログに載せた記事と写真を以下に。
「ドミンゴがやってきた!」というタイトルで、たぶん2005-04-17 09:11:03にアップしたものだ。
昨日、ドミンゴがうちにやってきた。これは13時頃、うちに到着したときの写真。
このドミンゴ、リアにエンジンを積み、リアタイヤを駆動する、つまりリアエンジン・リアドライブ(=RR)。バスと同じだ。運転感覚はちょっと変わっている。アクセルを踏むと、前がちょっと浮く。荷重のかかったリアが駆動するので、トラクションはしっかりかかるみたいだが、一方で、ハンドリングが時折ふわふわっとした感じになる。時速100kmぐらい出してみると、ちょっとひやっとする瞬間もあった。前に荷重を残しながら加速するという、デリケートな扱いが必要みたい。ある意味、プリミティブでいい感じ。下手すると尺取虫みたいな走り方になってしまう。
中古車屋で車検を通したものを買ったのだが、車検前の定期点検簿でオイルフィルターを交換したことになっていたけど、見たら、交換してなかった。点検簿にはほんとのことを書いてもらわないと困るなあ。
愛称は「ドミちゃん」に決定。
ドミちゃん到着後、さっそくテーブル付き(オプション)シートで遊ぶうちの子どもたち。小さくても7人乗り、2列目はこのようにテーブルにもなる。車格はほとんど軽1BOX。ショッピングセンターの駐車場は軽専用スペースに楽勝。隣のミニキャブとほとんど一緒だった。こういう感じは悪くない。これはビバ駐車場にてケータイカメラで撮影した1600x1200サイズを縮小。
以前の記事は以上。
これまでありがとう、ドミちゃん!
庭仕事は心に良い。
「最近私は、心を静め、心にのしかかる圧力から自由になるために、庭仕事に向かう。どういうわけか、バケツが雑草でいっぱいになるにつれて、私の頭の中でジャングルのようにからみ合ってせめぎ合っていた考えはすっきりと片付いていくのだ。眠っていた考えが浮かび上がってきたり、ほとんど形を取ることのなかった思いが、結合し合って、予想に反して具体化することもある。このような時、ありとあらゆる身体的な活動と並んで、私は自分自身の心のガーデニングをしているように感じる」(スー・スチュアート・スミス『庭仕事の真髄:老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭』p16)
…どんだけ雑草生えてるんだこの庭は、と思ったが、庭仕事、土いじりはたしかに心に良い。
おいしさは心の栄養になる説
…ということを考えています。
食事は体の栄養になるだけでなく、おいしい食事を摂ることは心の栄養にもなるのではないかと。
こないだどっかで一番ランチタイムが長いのはフランスだと読みました。フランスは市民革命の国であり、たしか防研史料で読んだと思うけど(探せば出てくる)第一次世界大戦後のヨーロッパを視察した日本の陸軍軍人がメンタリティを賞賛していたのがイギリスとフランスだと思った。
戦時中の日本国民が「大いなる自由を愛せ」と声高に叫ぶ勇気がなく長いものに巻かれて悲惨な終戦となったのは、心の栄養が足りず、自律した強い心がなかったからではないかと個人的には思っている。
と支離滅裂に書きなぐったところでとりあえず。
マズいランチの教訓
昨日、ものすごくマズいランチを食べた。
以前コーヒーを飲んだことのある喫茶店で、コーヒーはわりと美味しく店内や店員の感じも悪くない。が、過去最悪とも言える、店が客に出してはいけないレベルの料理ともいえない料理だった。食べてすぐ会計を済ませて店を出た。二度と来ない。
そこで思ったこと。
その1。ちゃんと生きてちゃんと働くために、ちゃんとしたものを食べることは大事。
その2。ほんとうにひどい店(コンテンツ)には感想も寄せられない。
見かけが良くても内実はド素人のオペレーション、客に対するホスピタリティが根本的に欠落した店はいずれただ消えてなくなるだけ。僕自身がそうならないように。
ラーメンを食べない。
数年前からラーメンを食べなくなった。自宅近くの特定のラーメン屋に時々行く以外は。
以前はよく食べていた。特に昼はラーメンが多かった。
ラーメンを食べなくなってわかったこと。出先で何か食べようと思っても、ラーメンを選択肢から外すと食べ物に困ることが多い。どこもかしこもラーメン屋ばかりだから。
加えて、牛丼チェーンやハンバーガーチェーンなどのセントラルキッチン系も行かなくなったから、となると食べるものが見当たらない駅前というのがザラにある。
僕らの食生活は案外と貧しい。
日本はいつからこんなに貧しくなったのだろう。
※安い=貧しい、と言っているわけではない。決まったものばかりという状況を貧しいと表現している。
全国チェーン店で食べない理由
在宅で仕事をしていることが多いが、昼食はできるだけ近くの個人経営/家族経営/中小企業経営のお店で食べるようにしている。牛丼チェーンやハンバーガーチェーンなどの全国OR全世界チェーン店にはまず行かない。その理由は2つ。
理由1。どこで読んだか忘れたが、あるインド人がある日本人に「チェーン店で食べたら地元にお金が落ちない、私はできるだけ地元にお金が落ちる店で食べる、君はなぜ行く店を選択するのにそうした要素を考慮しないのだ」と言ったという話。チェーン店でもバイト代などの形で多少地元にお金が落ちるけれども、かなりの割合でどこかに吸い取られていく。お金が地方から中央に、あるいは日本からどこかの国に。とはいえ、コンビニなどのチェーン店を使わないわけにはいかないから、せめて、自分が住んでいる地元をより良くしたいのなら飲食だけでも地元のお店で。
理由2。心を豊かにする一つが食だが、工場生産、セントラルキッチンの食では心は豊かにならないと思うから。カップ麺や冷食ばかり食べていて心が豊かになるとはとても思えない。顔が見える料理人がいつも通り心を込めて作ってくれる料理はおいしくて、ただおいしいだけではなくて心に豊かさをもたらしてくれるのだとぼくは信じている。高ければいいわけでもない。町中華の炒飯や焼きそばも、ぼくらの心に豊かさをもたらす。そして豊かな心は強い心だ。ちょっとやそっとでは折れない心を、心のこもった料理は育ててくれるのだとぼくは信じている。だから豊かで強くあるために、個人経営/家族経営/中小企業経営のお店で食べる。
思い出せば社会人駆け出しの頃、とある乃木坂の事務所に通って働いていた。時間がなかったからメシは近所の牛丼屋でかきこんで食べるのが習わしだった。下手すると昼も夜も、年がら年中その牛丼屋だった。牛丼屋といっても吉野家でも松屋でもすきやでもなくて、たしかカツ丼が500円で食べられて、いつもカツ丼を食べていた。あの頃、メシはただお腹を満たせられればそれで良かった。そして当時のぼくは社畜だった。リーマンではなかったけど、自主的思考を失った奴隷のようだった。その頃の反省が強くあるから、食はできるだけ豊かでありたい。