転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

うまい!

昼食に「うまい!」ものを食べるのが喜びだ。とりわけ、何もない田舎で家族が静かに営むお店で「うまい!」ものを食べられると、この上ない幸せだ。

ここ埼玉の近所には、そんな店が各所にある。ということは、全国至るところにそんな店があるのだろう。

僕はそんな店に助けられ、支えられて生きている。そして僕も、できるだけ巨大資本に搾り取られることなく、一人の客として通うことで、そんな店を少しばかりでも助け、支えて生きていきたいと思う今日この頃。

どうしようもない大人は恥でも役に立つ。

振り返ると、案外と「どうしようもない大人」の存在に助けられて生きてこれたように思う。

大学に入って上京し、僕はしばらくの間、「サウンド・ニュース」の編集部に出入りしていた。バイトで行ってたとかじゃなく、ただ編集部に遊びに行っていたんだけど、それについては既述参照。

んで、そこにも書いたけど、編集部には、追い込まれるときまって行方不明になってしまう男性がいた。たぶん30代くらいの人かなあ。みんなわかってるから別段驚きもせず、「ああ、またね」的な感じで放置プレイ、やがてその人は戻ってくる。

その人の担当業務の穴を誰がどうやって埋めていたのか知らないけど、でも、編集部はいつも通りに動いていたし、かといって、その人が「いてもいなくてもいい、どうでもいい存在」というわけでもなかったと思う。

んで、そんなのある種、どうしようもない大人の行為ではあるんだけど、まだ十代だった僕は、心の中で、「あ、これでいいんだ」と妙な安心感を覚えていた、ような気がする。

その後も、僕に影響を与えた大人たちは、みな、ある意味で「どうしようもなさ」を抱えていたように思う。テレビディレクターの大先輩、片島紀男さんなんかも、歴史番組の制作にかける情熱たるや常人ではなかったけど、片島さんの思い出を語る人たちのエピソードはどれもある意味どうしようもない話ばかりで、それをみんなが楽しそうに話すのを聞いているのが好きだ。

人間は不完全。でも、それぞれがそれぞれらしく生きている。それでいいじゃん。

どうしようもない大人たちは、それを教えてくれたように思う。

※反社会的行為も「どうしようもない」が、当然それは除外します。

各地のラーメン屋が案外と旨くない件。

いろんなとこでラーメンを食べていて、気づきつつあることには、イケてる感じの今風ラーメン屋は数多あれど、実際食べてみると案外イケてない、という事実。

仕事柄、飛び回るという程ではないけど、あちこちの知らない町に行くことは多い。で、いまどきの駅前で昼飯を食おうとすると、牛丼屋チェーンかラーメン屋しかない、という事態によく出くわす。となると、味を知ってる牛丼屋チェーンより、知らないラーメン屋の味を堪能したいと思うのが人情。たいてい、古くからやってる中華料理屋ではなく、新規開店で比較的若い人がやってるラーメン屋ということになる。

だいたいはおいしそうな気配を醸し出していて、お客さんもけっこうひっきりなしだったりするから、大いに期待したりするんだけど、出てきたラーメンが期待値を下回ることが、経験上圧倒的に多い。たまに旨いラーメンだとびっくりする。

これはいったい、どういうことなんだろう。不味いラーメンで、客が入らず閑散としているんなら納得もいくのだが、繁盛してているのに不味い。経験上、これはかなり多い。ネットのレビューも悪くなかったりだとか。ちなみに僕の舌はきわめてノーマルで、肥えているということは少なくともない。

いまのところの仮説。

その1.慣れの問題。馴染み客にとってはいつもの味。僕には慣れない味。→何度か通ううちに好きになるかも。

その2.多くのラーメン客は味ではなく「人気店という価値」を消費に来ている。→なんだかわからないけど名店と言われると有難がってしまうという心理。

これからもその謎を抱えながら、各所のラーメン店を突撃訪問することになるんだろうなあ。でもできれば、駅前のランチはもうちょっとバリエーションが欲しいよ。

車輪と道路というインフラを超えて

地上を生きる動物にとって、現代人間社会に欠かせない車輪と道路は非情な存在だ。道路を横断中に車輪に轢かれて命を失った動物は有史以来数知れず、また、道路を敷設することによって生命の源だった土壌はアスファルトに覆われて死んだ。

地上数メートルほどの高さで移動するツールができれば、アスファルトを剥がして命の土壌に戻せるし、バードストライクのリスクはあるものの地上の生き物は轢かれずにすむ。人間にとっても、道路を全面的に歩行空間にすることができて安全だ。

というような妄想を、散歩しながら考えた。

埼玉は、いいところだ。

なんといっても埼玉の一番いいところは、全国屈指の「ゆるさ」にあると僕は思う。映画「翔んで埼玉」は、埼玉の「ゆるさ」なしにはありえない。よそ者をよそ者扱いしない田舎って、埼玉以外にどこかあるだろうか。いろんなルーツを持つ人たちが、何気なく雑多に、普通に暮らせるのが埼玉。

愛知県三河地方の管理教育で痛めつけられて育った僕は、大学時代を千葉と東京で過ごし、卒業後1年間は千葉、あとはずっと埼玉で30年以上暮らしているから、もはや生まれ故郷よりも馴染んでいる。

埼玉は、秩父地方を除けば基本、平地ばかりなので、車があればぐるっと360度、どこに行っても何かしらのお店だったり、ちょっとした観光地だったりがあるのもうれしい。ま、観光地はちょっとしたものしかないのだが。

お店も、いまは各所に家族経営の小さなお店が新しくできていて、みな地元密着で、なじみのお客さんで身の丈経営をしているのが好ましい。地価の高い東京の繁華街だとスクラップアンドビルドが激しく、いまだとインスタ映えとかのエグい商売で一見の客を集めて荒稼ぎというパターンが主流だろうが、そういうのが埼玉は薄い。飲食店の味もいい。ちなみに埼玉は小麦の生産が盛んで、うどんに関しては意外と名店が多い気がする。しかも、地価が安くて注目度も低いから、おいしい料理を手ごろな値段で、ゆっくりと味わえるお店が多い。

埼玉の唯一ダメなところは、終電が早いところだ。これはとくにJR東日本はなんとかして欲しい。なんで神奈川方面が遅くて埼玉方面が早いのだろうか。→もしかして埼玉県民があまり働かないからか?

ともかく、埼玉はいいところだ。いいところだと言ったところで他県からそんなに人口流入もないので、いつまでたってものんきでいいところだ。

生きるのが大変な子どもたちへ。未来は君たちのものだ。生き残れ!

子ども時代は、時に過酷だ。そのことを全く理解できない大人も多いだろうが、ぼくにとって子ども時代は過酷だったから、ぼくなりに理解できる。50歳を過ぎた今から振り返れば、今ぼくが背負っているものなんて、子ども時代からすれば、鼻歌楽勝レベルにすぎない。あの頃は大変だったなあと久しぶりに思い出したのは、村田沙耶香の寄稿(朝日新聞2020年1月11日朝刊13面)を読んだから。

子どもの頃のぼくにとって、最も辛く大変だったのは「社会化」だった。ぼくは内気で、非社交的な子どもだった。というか、まず、学校という集団社会にまったくなじめなかった。学校は、一律な社会規範を子どもたちに教え込む場だ。叩き込む場と言ったほうがいいか。親や教師は、この一律の社会規範を身に付けなければ、社会でやっていけないと脅す。少なくともぼくはそう感じながら学校生活を過ごしていた。が、ぼくは大人たちが僕に叩き込もうとしている社会規範の意味が、さっぱり理解できなかった。なんでみんな同じことをしなくちゃいけないのか。ぼくは小学校入学から大学を卒業するまで、一貫して学校生活になじめなかった。全国的にも管理教育で知られた愛知県岡崎市という土地柄で育ったことも大きく影響したんだろうが。

たとえば、机をみんなで運びましょう、という。みんなで机の縁を手でもって、よいしょ、と持ち上げる。でもさ、この机を運ぶのに、こんなに人手要らないじゃん。大半はただ持ってるフリをしてるだけじゃん。でもそのフリが集団社会ではマストなんだよね。あほくせ。ぼくにとっては一事が万事、こんな感じだった。

無意味な儀式に延々とつきあわされる僕。あほくせ、と内心思いながら、一方で、自分は社会の不適合者なのではないかとの不安。不安におそわれるから、いやいやでも何とか学校に通って、集団規範にあわせようとする日々。どうやったらこの社会と、この自分をフィットさせられるのか、試行錯誤が続く。

何者でもなかった小学校時代。学年トップの秀才をはやし立てられた中学校時代。反抗的な高校時代。「破滅的」だった大学時代。結局、ろくな就職活動をすることなく大学を卒業。みんなと同じようには社会に適合できなかった。

それでもその後、一匹狼のフリーランスという道を選び、いまに至る。ぼくはリーマンには絶対になれないので、この道が唯一無二の選択肢だったことは、あとになって強く自覚することになる。こんな僕でも、この社会のなかで生きる道があるということは、子どもの頃のぼくにはわからなかった。学校生活になじめなくたって、ちゃんと生きる道はある。

生きるのが大変な子どもたちに伝えたい。

とにかく生き残れ。いまの君が直面している現実は、絶対的永遠の現実なんかじゃない。生き残りさえすれば、君にフィットした場所がきっと見つかる。そこで頑張らないで、駄目だと思ったら即逃げろ、と。

ところで、いまだにこの日本社会に根強く残っている、上意下達で一律な社会規範は、けっして人間社会普遍の社会規範ではない。日本という限られた場所で、しかも、おそらく明治以降に人為的に形づくられた、限定的なものだ。その効用はすっかり賞味期限が切れ、時代錯誤でむしろ社会の健全な成長発展を妨げるものに成り下がっているとすら思う。

これはあくまで仮説でこれから検証を要するのだが、明治政府は、西洋化と工業化に対応する国家とするために国民を教育した。天皇を頂点として統制のとれた、軍隊のようなピラミッド社会で命令されたままに動く、自主的思考を放棄した国民。つまりはロボットだ。この教育効果が最も著しく現れたのは戦時中ではなくむしろ戦後。1964(昭和39年)の東京オリンピック、「なせば成る!」とか「不屈の闘志」の時代だったのではないかとみている。4年後の1968(昭和43)年、日本はGNPで世界第2位、経済「大国」の座を勝ち取った。日中戦争から太平洋戦争へと至る道は結局のところ「大国」を目指して進んだわけで、1945(昭和20)年の敗戦でその道は途切れただけではなく、「大国」への道はその後も続いたとみるべきだ(ただし、GNP第2位は翌年6月10日に経済企画庁が発表した国民所得統計(速報)で明らかになったので、日本国民が「大国」を自覚したのは1969(昭和44)だったといえる)。その後、「黄金の」1970年代をピークに、「大国」日本は下降し続ける。ぼくはその最大の要因が、明治以降、「大国」を速成するために採られた、この無思考人間育成社会にあると思う。

と考えていくと、いま生きるのが大変な子どもたちこそが、将来の日本の希望の種だということになる。

子どもたち、希望を持って生き残れ。

時代遅れの大人たち、せめて邪魔をするな。

※追記:将来の夢なんてくそったれだという話を「将来の夢と社会規範」に書きましたので、そちらもよろしければ。

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朝日新聞2020年1月11日朝刊13面(寄稿)村田沙耶香