転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

根っこさえ残ってれば再生できる。

冬の季節、うちの畑はかなりみっともないことになってる。ネギもミツバも霜にやられたか、くたくただ。

でも、植物は根っこさえ残ってれば、春になればまた元気に復活する。

ぼくら人間も、根っこさえ残ってれば、時が来れば再生できるんじゃないか。見た目はくたくたでも、腐らずに時を待とう。

…と思ったのは、部屋のテーブルヤシ、植替で根っこを痛めてしまったようで、かなり枯れてしまったのだ。根っこさえ残ってれば、いいのだが。

晩秋のちんまりとした休日。

おとといの土曜日。風もなく、ぬくぬくとした穏やかな日。
今日はちんまり過ごそうと決めた。
午前中は庭で。ずいぶん前に買った九条細ネギのポット2つを畑に定植する。根をできるだけ切らずに1本づつ分けるのが大変で長らく放置していた。水につけ、少しづつ土を、根をバラしていく。1時間ぐらいかかっただろうか。それを畑に一列に並べて土をかけ、ワラでマルチングをする。
庭のメダカはそろそろエサやりを控える時期だが、今日は水温10度ぐらいと高く、水面を元気に泳いでいたのでエサをやったらわりと食べた。池の水温は最高気温ではなく最低気温にリンクする。来週は最低気温がぐっと下がる予報になっているから、そうするとメダカはエサを食べなくなり、春先まで底にかくれてじっと過ごすようになる。ぼくにとってはそれが冬の到来。秋は実質今日までかな。
昼になり車で出かける。ちんまりと食べられるのはどこかなと考えて、市内のそば屋にした。そばがおいしい店だけど、うどんもある。ちんまりとうどんを食べよう。2時のオーダーストップに近い時間に入ったのだが、店内には意外とお客さんが何組もいた。座った席はまだ片付けの途中だったらしく、おばさんが机を消毒液で拭きながら、消毒なんて嫌な時代だねえと言う。そうですねえと答える。
たぬきうどんを注文してしばらく待っているうちに、あれ、たぬきそばって言わなかったかなあと思い始めた。時々、心に考えていることと、口に出すことが違うことがある。以前、人にコピーを頼んだときA4と言ったつもりがA3と言ったらしくA3コピーが出てきてびっくりしたことがある。無事にたぬきうどんが来て、ほっとした。
天かすが好きで、丸亀製麺などではセルフのネギと天かすを山盛りにして食べるのが常なのだが、ここのたぬきは天かすが別皿でついててうれしい。パリパリの天かすが食べられる。最初にちょっと天かすをかけてレンゲですくって食べる。うまい。うどんもうまい。さらにサービスで野菜の天ぷらを3つつけてくれた。うれしい。天ぷらをつゆにつけて食べる。うまい。こういうささやかなうまさで僕は日々生かされているから、飲食店従業員の皆さんには感謝しかない。
そば屋を出て、隣町の魚屋に行く。自宅奥の小屋にご主人ひとりで切り盛りしている、小さな魚屋だ。珍しく先客がいて、狭い店内が賑わっている。おさかなのマリネをまず手にとり、めひかりの干物も買い、刺身も3点買う。
いったん自宅に戻って買った品を冷蔵庫に入れ、ふたたび車で小さな喫茶店へ。特等席の窓際には座れなかったが、窓の外が眺められる席に案内された。外は森の中のような景色。コーヒーが何種類かあるうち、モカと迷った挙句キリマンジャロを頼む。この店は83度でコーヒーを淹れると以前聞いた。落ち着いた味だ。
それからスーパーの駐車場に車を停め、向かいの焼き鳥屋さんで焼き鳥を5点注文する。ここは高齢のおばさんが一人で営んでいる、焼だんごと焼き鳥の小さな店だ。スーパーで酒を買い、焼き鳥をとりにいったら、わたし注文を間違えたかしらとおばさんが不安そうにしていた。大丈夫です、頼んだのはこの5点で、塩味ですと言うとほっとしていた。歳をとると、そういうこともあります。
日没とともに帰宅、買ったばかりの焼き鳥と、おさかなのマリネでテレビのバラエティ再放送を見ながら一人飲みをはじめる。
歳をとり、若い頃のように放っといても年中元気というわけにはいかなくなった。体調の維持はもちろんだが、メンタルの維持が大事な年頃。こじんまりと、心を激しく動かさずに過ごせた一日だった。

なぜ世情が豹変したのか(乖離する政治、報道)

昨日、近所のレストランで昼食をとった。家族経営の小さなレストランは満席で、外で景色を眺めながらしばらく待った。職場仲間らしい若い6人組の会食が出て、やっと席につくことができた。僕の後ろはスポーツクラブの帰りらしいおばさん6人組だった。店内には賑やかなおしゃべりで満ちていた。

今年の4月、5月頃には考えられない状況だった。どこの飲食店も閑散としていたし、大人数の会食など見かけなかったし、皆ひそひそと小声で話をしていた。

世情があの頃とまるで変わってしまったのだと実感した。「自粛警察」などというワードが飛び交ったあの頃とは。

何故なのだろう。

コロナの感染者数はあの頃よりもずっと多い。専門家らは悲鳴のような訴えをしているし、政府や自治体も呼びかけているのに、世情の反応は極めて鈍い。多くの人が、一応マスクをしている。マスクだけはしている。各所に設置された消毒液を使う人は減った。電車に乗るとあちこちで喋り声が聞こえる。しかもずっと喋っている。

そして、この世情を、新聞もニュース番組も伝えていない。記者はたぶん実感として感じているのだろうが、それを言語化できていない。世の中に起きている大事なことを伝えるのが彼らの仕事のはずなのだが。

いちばん理解できないのは、なぜ世情がこんなに豹変してしまったかだ。自粛警察時代は戦時中に似た実感があってこの国はちっとも変ってないと妙に納得できたのだが、現況には納得できない。

なんで皆変わってしまったのだ??

いったい日本国は僕らを守る気があるのか。

 と先日書いた。一ヵ月ぶりに都内に出たときのこと。感触として、多くの人が「いちおうマスクしときゃ文句ねえだろ」的な気分になっている。「専門家の悲鳴」は、多くの人に届いていない。これは政治に、とりわけ、国民にメッセージを伝えようとしない首相に問題があるのではないか。いったい日本国は僕らを守る気があるのか。

日本社会はずいぶん前からアトム化してる。

Twitterとか見てると、みんなひとつの方向に流れちゃうでしょ。

…そうなるのは、日本社会がアトム化してるからだと思う。この場合、個人個人がバラバラになってる状態を「アトム化」と言ってますが。なぜアトム化してるかっていうと、戦前から戦後にかけての日本社会にルーツがあるってことを近々書きたい。

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おいしいが生きる力になる

絵本『みそしるをつくる』(ブロンズ新社)の新聞広告のコピー、

おいしいが生きる力になる

が、とてもいいと思った。

そう、「おいしい」は生きる力になる。「おいしい」は人を幸せにする。「おいしい」は心を豊かにする。

「おいしい」は人を強くし、理不尽や不条理や、その他、人を不幸せにするものに対して、人を立ち上がらせ、それらと戦う力を与えてくれる。

心が折れそうになったら、まずおいしいものを食べよう。工場やセントラルキッチンで無味乾燥に製造されたものではなくて、ちゃんと人が作った、おいしいものを食べよう。それは贅沢なんかではない。人が生きていくための必要な栄養だ。