転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

「何もしない老人たち」が、これからの日本を変えていく。

大きな仕事がひと段落しつつあって、こころの余裕がやっと生まれてきた気がする。毎朝の庭作業が日課なのだけど、ゆっくりと見渡すと、これまでスルーしていたことに気づくことができるようになってきた。今朝は、道端に生えてた草木を切った。多少、通りやすくなったのではないかと思う。

ぼくはいま50台半ばだから、老人を自称するにはまだ少し早いけど、体力の減衰は自覚してるし、この先は確実に「老人への道」が待っている。どう歳をとっていくか、いまは選択肢がいろいろとあるだけに、考えていかないといけない。

駅前の商業施設に行くと、ベンチにはたくさんの老人が座って、何もしないで、ぼんやりと過ごしている。彼らは何も生産していない。生産至上主義的思考からすれば、要らない人間ということになる。

果たしてそうか。

近現代の日本は、「猪突猛進まっしぐら」に進んできた。社会ぜんたいが、じっくり、ゆっくりと考えてこなかった。思考停止の果てに、いまの日本社会がある。あちこちがいびつに仕立てられた、この社会の姿がある。

老人には、ゆっくりと流れる時間がある。ぼんやりと思いをめぐらせる余裕がある。これまで見落としていたことに気づけるかもしれない。高齢化社会、老人の数はこれからもどんどん増えていくから、日本社会全体の「ぼんやり総数」も増大していく。従来の生産至上主義からすれば、「増大するぼんやり総数」はネガティブなお荷物でしかないのだろうけど、いびつな現代日本社会を整えるパワーと考えれば、ポジティブな希望となる。

老人たちには、こういう日本社会にしてきた責任もある。凝り固まったお決まり思考から、ぼんやり時間が生む、自由で、多様な思考へ。

歳をとったら、ゆっくり、ぼんやりしよう。「何もしない老人たち」が、これからの日本を変えていく(かもしれない)。