転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

雑草のない世界は荒野だ。

一軒家のウチには小さな庭がある。ぼくはここを小自然と呼んでいる。

庭の一部をこれまた小さな畑にしてるのだけど、次第に耕さなくなった。だって生きものが土の中に眠ってるんだもん。カナブンか何かの幼虫とか。掘ったら冬眠中のカエルが出てきたときはびっくりした。ぼくは小さな生きものをできるだけ殺さないようにしている。洗濯物にくっついてたのか、アシナガバチが台所で飛んでたときは捕獲して外に出してやった。あ、アシナガバチは滅多に人を刺さないし益虫なので共存しましょう。そんなわけで畑は耕さず、鍬とかスコップとかできるだけ使わず。それに雑草もあまり抜かなくなった。だって生きものがそこにいるんだもん。邪魔にならない程度にほったらかし。

んで、ある時、庭の雑草を見てて思った。

雑草のない世界は荒野だ。

雑草があるから野生の生きものがそこで暮らす。田舎は雑草だらけで、雑草のある世界には昆虫からカエルから、イモリだかヤモリだかから、鳥も、野良猫も、いろんな生き物が生を全うする。だから雑草のある世界は豊かだし、たくさんの生き物で賑やかだ。音はあんまりしないから静かだけど、生命がたくさんって意味で賑やかだ。

アスファルトで地面を覆っている都会は荒野だ。生命が(あまり)いないから死の世界ですらない。

ぼくはそんなとこで生きたくない。

たくさんの生きものが暮らすこの小自然の空間が好きだ。毎朝、メダカや畑や鉢植えの世話で庭に出る。池に落ちた虫(なんであいつらよく落ちる)を拾ってやったりする。それがぼくの力になる。

「早い安い」は僕らを奴隷にする。

心を豊かに、そして強くする食事とはどんなものか。

コロナ以前から在宅勤務がデフォルトの僕は、できるだけ昼食は外でとるようにしている。一日一度は外に出ないと引きこもり気分だし、昼の日差しを浴びるのは健康にいいし、そして、多少なりとも地域経済に貢献したい気持ちもある。

んで、できるだけ、大資本の工場生産でない食事をとるようにしている。いちばんは近所の零細経営のとこ。手渡したお金が手渡された相手の人の懐にそのまま入るようなお店がいい。あるいは少数のパートさん、バイトさんで切り盛りしている家族経営、零細経営のお店。ちゃんと手作りのごはんを食べる。それが心の力になる。

ファーストフードのチェーン店で働いている人には申し訳ないが、工場生産フードは心の栄養にはならない。

「早い安い」は僕らを大量生産大量消費社会の奴隷にする。

たぬきうどんが食べたい。

タイトルのまんまで、特に深い意味はありません。

ここんとこ、たぬきうどんにハマっています。あ、関西の人にはわかんないかな、かけうどんに天かすとか乗ってるやつ。

えっと、うどんとかそばって、上京してから立ち食い系で覚えたクチなんで、基本的に軽んじてたというか、時間のないときにささっと食べるものだと思ってた。で、とりわけうどんについては、単なる小麦粉じゃんって思ってたフシがあり。。。

が、なんだろうなあ。昼においしいたぬきうどん。これがいいんだ最近。

決定的だったのが、近所の某そば屋のたぬきうどん。あ、ここ埼玉では、そば屋と言いながら、そばとうどんの両方出している店がけっこうあり、そばもうどんも両方おいしい店は珍しくないんだけど、ここのたぬきうどん、天かすが別皿で出てくるんだよなあ。これがいい。僕は天かすのパリパリ食感が好きなので、まずは少々うどんにかけて、天かすを味わう。そいからうどんを食べ、つゆをすすり、残りの天かすをかけて、またパリパリを味わう。最高。

昨日そこで昼飯食べようと思ったんだけど、臨時休業でがっかり。

たかがたぬきうどん、されどたぬきうどん

飲食業を犠牲にして僕らだけ生き残るなんて。

※追記:続きはこちらに書きました→急所について仮説:多くの人の外出行動は適切だが、ごく一部の人の不適切な行動が現在の感染拡大を招いている。

今回の緊急事態宣言で政府・行政は僕らに飲食店でのランチも自粛しろと言う。夜8時以降の営業自粛には僅かな補償を出すが、ランチは補償されない。昼間に店を開けても閑古鳥。泣くに泣けない。

それは、コロナ克服という国民全体の利益のために、飲食業という一部の国民を犠牲にする、全体のために一部が犠牲になってもかまわないという発想だ。政府・行政はすべての国民、すべての市民を幸せにする気がないらしい。戦時中に若者を特攻で犠牲にして生き残った大人と同じ発想だ。

そんな馬鹿なことがあるか。僕らは誰かが犠牲になって達成される幸せで納得できるのか。納得できない。

みんなで生き残るんだ。政府・行政は、昼間の人出も抑えたいなら、飲食業に対しその分の補償も充分に行うべきだ。それができないのなら、昼間の人出を抑制すべきではない。

コロナ感染抑止の肝は人出の抑制ではなく接触回数の抑制だ。ランチ自粛ではなくランチ会食の自粛だ。一人でのランチ、同居家族とのランチは感染リスクは少ないから、むしろ積極的に奨励すべきだ。

何が良くて何が駄目か、そんな基本的なアナウンスすらも政府・行政はろくにせず、ただ外出は控えろと、お前らこの一年いったい何を学習してきたのだ。

ひょっとして、政府・行政のお偉いさんはランチはみんなで食べるものと勘違いしてるのか。永田町ランチはそうなのか。永田町界隈はそんなランチでいまだに賑わってるのか。

僕らは違う。お前らと違ってすでに感染リスクの低い外食のとり方を知っている。

もし本当に外食自体を抑制したいなら、外食のCMを全部止めさせろ。そしたら民放は収入減でニュース番組も続けられなくなるかもしれないが、政府・行政が求めているのはそういうことではないのか。人にできもしないことを要求しておいて、ああ自分はこんなに言ったのに応えてくれない、ああ自分は悪くないなどと嘆いてみせるのは、無責任だ。それが大人のやることか。政府も行政も専門家もメディアも、責任ある立場なはずの大人が、無責任だ。

すべてのひとが救われなければならない。いつも僕を幸せな気分にしてくれるお店の方たちも当然救われなければならない。

だから僕は昼は外で食べる。なじみのお店で食べる。

ぼくは間違っている。

正月に近所の神社でおみくじをひいたら、こう書いてあった。

このみくじにあう人は
道に迷ってやがて本道へ出るように
いろいろ思い違いや間違いがあるが
自分のあやまちを知り
これを改め
神仏を信じ
心を正せば
やがて幸せは来る

そうか、ぼくは今、間違っているんだと思い、いったい何を間違えているんだろうと考えたが、わからなかった。

が、

ぼくは間違っている。

と考えることで、謙虚な気持ちになる。他人の指摘を受け入れる気になる一方で、他人の間違いを糾弾する気がなくなる。だって、間違ってる身だもんね。

自分が間違っていると、誰かに迷惑をかけるような気もするけど、できるだけ間違えないように努力するってことで、お互い様で大目に見てもらいたい。

なんしろ間違ってるんで、自分に対する要求レベルが低くなって、楽になる気がする。

振り返ってみれば、とりわけ20代のぼくは間違えまくっていた。それから年齢と経験を重ね、かなり常識的なオトナになってきたのだが、どうもその重ねてきたものがカサブタみたいに邪魔にもなってきた。

いくら年齢と経験を重ねたところで、ひとは常に間違っている。間違っているというところをデフォルトに、日々を過ごしていこうと思う。

末吉のおみくじ、ありがとう。

そうだ自分の言葉で語ろう。

「おかあさん」じゃなかった、石田ゆり子さんはこう書いた

自分の頭で考えて
自分の言葉で喋ること。
そんな当たり前のことを
今の世の中は
忘れがちな気がする。
個としてしっかり自分の足で立っていたいものです。

 渡辺京二氏も先日のオンライン講演会で、自分の言葉を使うことの大切さを語っていた。

語っているのはいつも自分自身なのだけど、それでも自分の言葉で語るのは難しい。難しいけど、自分の言葉で語ろう、責任をもって。