日本に生まれてよかった、なんて。
いったいこれはどういう意味なのだろうか。ぼくが生まれたのは愛知県岡崎市だ。三河生まれ、三河育ちという自覚はいつの頃からかあった。上京して東京の大学に通いはじめたときから出身地は相対的なものになった。東京ではいろんな出身地のひとに出会うが、どこ出身というのは大した意味を持たなくなった。そして埼玉県に住み着いて35年以上が経った。生まれ故郷よりずっと長い間を過ごしている。ここ埼玉と生まれ故郷の三河はヒトがまったく違う。以前小中学校の同窓会に出たとき、生まれ故郷にずっと住み続けている同級生とまったく考えかたが違うことに驚いた。ぼくはもうすっかり、埼玉に馴染んでいる。このように「日本」と一口に言ってもまったくひとくくりにはできない現実がある。風土も違うし人となりも違う。
なのに「日本に生まれてよかった」と、NHKの「日本人の意識」調査では圧倒的に多くの人が答えているそうだ。ナショナリズムなのだそうだ。
日本の近現代史がぼくの取材対象なのだけど、ではぼく自身に日本的な意識、日本的な自覚があるかといえば、どこにあるのかさえもわからない。ただ「三河に生まれてよかった」とは残念ながら思わない。たぶんもともと肌が合わなかったから、三河を出たかったのだろう。
んで、日本が良いとも悪いともわからない。他の国に住んだことがない。それにもし日本が良い国だとして、その良さは日本に生まれてないとわからないなんてことはない。別の国で生まれても一向にかまわんだろう。なぜ日本で出生することが素晴らしいんだかわからん。
だいたい日本ってアメリカやイギリスや中国に負けた国です。ボロ負けした国です。どの日本人も、本人、両親、祖父祖母、曾祖父曾祖母…誰かしら戦争のネガティブな思い出を持っているでしょう。ぼくは母が子どもの頃空襲にあった話をされました。そんな国に生まれてよかったのですか。
ある陸軍軍人のご遺族が「日本は花鳥風月の国だから」と言っていたのがぼくの心に焼き付いています。要は文化は素晴らしいんだけど政治的決断とかが優れた国ではない。戦時中のイギリスはチャーチルが首相でしたが、チャーチルのような政治家が当時の日本を率いていたら歴史はずいぶんマシなものになってたでしょうが、そういう政治家を輩出する土壌に日本はなっていない。あくまでも文化や伝統が取り得の国です。だから戦争なんて苦手なんだからやってはいけなかったんだと思います。
という歴史をふまえると、ぼくは「日本に生まれてよかった」なんてとても思えない。ただ、生まれたところが日本国内だし、日本人だし、日本語もしゃべるし、それがぼくのアイデンティティだし、ほかの国というか埼玉県以外に移り住みたいとも思わないから、この先もずっと、日本国埼玉県に日本人として住み続けると思う。
田中一村展と「豊かな心」
田中一村展を昨日、見に行った。「奄美の光 魂の絵画」ということだったが、奄美大島で描かれた最晩年の作品より「第2章:千葉時代「一村」誕生」の作品のが個人的には気に入った。
とりわけ、
No.93「水辺夕景」(昭和27年頃・43-44歳、栃木県立美術館蔵)
がとても良かった。夕景の静けさをきれいに描く画家だなあと思った。
でも多分、一村本人としてはこうした作品より独自の境地に到達した奄美時代の作品などを評価してもらいたいかなとも思った。
「水辺夕景」はとてもいい絵なんだけど、一村はこれを全力で描いてはいない気がする。ちょっと力を抜いているというか、ゆったりした時間の流れのなかで「さらっと」描いたような感じというか。
「ガツガツ」してないのがいい、っていうか。
絵を一通り見終わった後、東京都美術館のサイトに掲載された展覧会の説明文を改めて読むと、なんかちょっと違うんじゃないか、っていうか。
はたして一村は「自らの芸術の探究に生涯を捧げた」のだろうかとか。
「世俗的な栄達とは無縁な中で、全身全霊をかけて「描くこと」に取り組んだ一村の生涯は、「不屈の情熱の軌跡」といえるもの」だったのかなあとか。
奄美時代の全身全霊モードは明白だったけど、僕としては、
芸術においては全力が必ずしも効果的とは限らない。
と感じ、僕も(絵はまったく描けないけど)表現者の一人として、それを心に刻み込もうと思った。
展覧会はたいへんに面白く、エネルギーをもらった有意義な時間を過ごすことができた。
ところで、これまで僕がお会いした軍人ご遺族のなかに「日本は花鳥風月の国だから」とおっしゃった方がいて、それが今でも心に残っている。この国は文化芸術が得意分野なのだから、そこにもっともっと力を注いでいくべきだと思う。
先日刊行された共著『「昭和天皇拝謁記」を読む─象徴天皇制への道』(岩波書店)で、拝謁記を書き遺した初代宮内庁長官田島道治が「豊かな心」を大事にしていることを書いた(256頁)。心を豊かにするにはいろいろな道があるけど、こうして文化芸術にふれることもその一つ。
いま日本は(日本だけではないけど)「貧しい時代」に向かっているように感じる今日この頃。世界中の人々がスマホを持つ時代には平準化が進み、これまで豊かさを享受してきた世代からバトンタッチした僕らの世代にはかつての豊かさの再来は望めない。でもそんな時代だからこそ「心豊か」に生きることが求められていて、こうした「豊かな」展覧会が今後もどんどんと開催されていくことを願っている。
※自分でも支離滅裂な文章に思ったけどとりあえず公開しとく。
僕たちは世界を変える力を持っている。
僕たちの価値観と僕たちの消費行動、そして僕たちの消費行動とこの世界のありようは強い相関関係にあり、僕たち一人ひとりの価値観が変わると消費行動が変わり、それが世界を変える力になる。
数年前朝日新聞の海外支局記者のコラムで、インドだったかな現地人が「私はグローバル企業ではなく地元のお店でできるだけ消費するようにしている。グローバル企業に支払ったお金はほとんど地元に残らないからだ」と言われた的な記事を読み、へーと思ったのが最初。記事を読んだ時はただへーと思っただけなのだけど、以後頭にこびりつき、僕もランチはできるだけ地元のお店で食べ、お金は地元の知ってる人に払うように心がけている。
また、こないだ図書館で『風景をつくるごはん : 都市と農村の真に幸せな関係とは』(真田純子、2023年、農山漁村文化協会)という本を借りて少し読んだが、都市生活者の意識と行いが変われば農村の風景が変わるといった主張を読み、やはりへーと思った。
そして昨日テレ朝人生の楽園で仲沢商店という量り売りの店を紹介していて、これもやはりへーと思った。この番組は回によってかなり当たり外れが大きいが今回は大当たり、かつ仲沢商店さんのインスタを見ると良い制作陣だったようで良かった。量り売りというビジネススタイルは番組を見る限りでは主人公の方がイギリス留学中に体験したもののようだが、古くて非常に新しいやり方に思われ、この仲沢商店やその周りの方々、お客さんも含めて世界を変える力を持っている。
本当に世界を変えるのは政治家なんかじゃなくて、僕たち自身なのじゃないかって気がする。
ドミちゃんとの別れを惜しんで。
20年近く共に過ごしてきたスバル・ドミンゴを昨日、廃車(一時抹消登録)にした。本当はもっとずっと一緒にいたかったが、劣化が著しく断念。それにしても心残りなので、技術的な問題で現在稼働していないブログに載せた記事と写真を以下に。
「ドミンゴがやってきた!」というタイトルで、たぶん2005-04-17 09:11:03にアップしたものだ。
昨日、ドミンゴがうちにやってきた。これは13時頃、うちに到着したときの写真。

このドミンゴ、リアにエンジンを積み、リアタイヤを駆動する、つまりリアエンジン・リアドライブ(=RR)。バスと同じだ。運転感覚はちょっと変わっている。アクセルを踏むと、前がちょっと浮く。荷重のかかったリアが駆動するので、トラクションはしっかりかかるみたいだが、一方で、ハンドリングが時折ふわふわっとした感じになる。時速100kmぐらい出してみると、ちょっとひやっとする瞬間もあった。前に荷重を残しながら加速するという、デリケートな扱いが必要みたい。ある意味、プリミティブでいい感じ。下手すると尺取虫みたいな走り方になってしまう。
中古車屋で車検を通したものを買ったのだが、車検前の定期点検簿でオイルフィルターを交換したことになっていたけど、見たら、交換してなかった。点検簿にはほんとのことを書いてもらわないと困るなあ。
愛称は「ドミちゃん」に決定。
ドミちゃん到着後、さっそくテーブル付き(オプション)シートで遊ぶうちの子どもたち。小さくても7人乗り、2列目はこのようにテーブルにもなる。車格はほとんど軽1BOX。ショッピングセンターの駐車場は軽専用スペースに楽勝。隣のミニキャブとほとんど一緒だった。こういう感じは悪くない。これはビバ駐車場にてケータイカメラで撮影した1600x1200サイズを縮小。


以前の記事は以上。
これまでありがとう、ドミちゃん!
庭仕事は心に良い。
「最近私は、心を静め、心にのしかかる圧力から自由になるために、庭仕事に向かう。どういうわけか、バケツが雑草でいっぱいになるにつれて、私の頭の中でジャングルのようにからみ合ってせめぎ合っていた考えはすっきりと片付いていくのだ。眠っていた考えが浮かび上がってきたり、ほとんど形を取ることのなかった思いが、結合し合って、予想に反して具体化することもある。このような時、ありとあらゆる身体的な活動と並んで、私は自分自身の心のガーデニングをしているように感じる」(スー・スチュアート・スミス『庭仕事の真髄:老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭』p16)
…どんだけ雑草生えてるんだこの庭は、と思ったが、庭仕事、土いじりはたしかに心に良い。
おいしさは心の栄養になる説
…ということを考えています。
食事は体の栄養になるだけでなく、おいしい食事を摂ることは心の栄養にもなるのではないかと。
こないだどっかで一番ランチタイムが長いのはフランスだと読みました。フランスは市民革命の国であり、たしか防研史料で読んだと思うけど(探せば出てくる)第一次世界大戦後のヨーロッパを視察した日本の陸軍軍人がメンタリティを賞賛していたのがイギリスとフランスだと思った。
戦時中の日本国民が「大いなる自由を愛せ」と声高に叫ぶ勇気がなく長いものに巻かれて悲惨な終戦となったのは、心の栄養が足りず、自律した強い心がなかったからではないかと個人的には思っている。
と支離滅裂に書きなぐったところでとりあえず。
マズいランチの教訓
昨日、ものすごくマズいランチを食べた。
以前コーヒーを飲んだことのある喫茶店で、コーヒーはわりと美味しく店内や店員の感じも悪くない。が、過去最悪とも言える、店が客に出してはいけないレベルの料理ともいえない料理だった。食べてすぐ会計を済ませて店を出た。二度と来ない。
そこで思ったこと。
その1。ちゃんと生きてちゃんと働くために、ちゃんとしたものを食べることは大事。
その2。ほんとうにひどい店(コンテンツ)には感想も寄せられない。
見かけが良くても内実はド素人のオペレーション、客に対するホスピタリティが根本的に欠落した店はいずれただ消えてなくなるだけ。僕自身がそうならないように。