転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

いったい日本国は僕らを守る気があるのか。

 と先日書いた。一ヵ月ぶりに都内に出たときのこと。感触として、多くの人が「いちおうマスクしときゃ文句ねえだろ」的な気分になっている。「専門家の悲鳴」は、多くの人に届いていない。これは政治に、とりわけ、国民にメッセージを伝えようとしない首相に問題があるのではないか。いったい日本国は僕らを守る気があるのか。

日本社会はずいぶん前からアトム化してる。

Twitterとか見てると、みんなひとつの方向に流れちゃうでしょ。

…そうなるのは、日本社会がアトム化してるからだと思う。この場合、個人個人がバラバラになってる状態を「アトム化」と言ってますが。なぜアトム化してるかっていうと、戦前から戦後にかけての日本社会にルーツがあるってことを近々書きたい。

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おいしいが生きる力になる

絵本『みそしるをつくる』(ブロンズ新社)の新聞広告のコピー、

おいしいが生きる力になる

が、とてもいいと思った。

そう、「おいしい」は生きる力になる。「おいしい」は人を幸せにする。「おいしい」は心を豊かにする。

「おいしい」は人を強くし、理不尽や不条理や、その他、人を不幸せにするものに対して、人を立ち上がらせ、それらと戦う力を与えてくれる。

心が折れそうになったら、まずおいしいものを食べよう。工場やセントラルキッチンで無味乾燥に製造されたものではなくて、ちゃんと人が作った、おいしいものを食べよう。それは贅沢なんかではない。人が生きていくための必要な栄養だ。

だから僕はシラスが食えない。

一昨日朝、メダカが一匹亡くなっていた。

庭のプラ舟で育てていた、今年生まれたうちの一匹で、まだ稚魚といっていい大きさだった。綿かむり病だったので、室内の水槽に移して塩水浴にしていた。なかなか元気にならなかったが、3週間近く経ってようやく大丈夫と判断、半分水替えをして塩分濃度を薄めた矢先のことだった。水替え後、底でじっとしていたので、大丈夫かなとは思ったのだが、その翌日のことだった。

毎朝、起きると「おはよー」と水槽をのぞきこんで状態を確認していた。やつは生きようと必死だったし、ぼくもやつを生きさせようと努力した。良かれと思った水替えが、結果的にやつの命を奪った。おそらくもう一回、塩分濃度を保ったまま水替えをするべきだった。

メダカを世話したことのある人ならわかってくれると思うが、メダカは小さな体で、懸命に生きている。それは生まれたての稚魚でも、何年も経った成魚でも変わらない。というか、生き物はみな懸命に生きている。

やつはシラスよりも小さい一匹だった。やつが暮らしていたプラ舟のそばを掘って埋めてやり、弔った。

だから僕はシラスが食えない。メダカの世話を始めて以来、シラスを食べていない。

「あくせく指標」について考えた。

昨夜考えてメモに残したのだが、よく覚えていない。たぶんこういうことだと思う。

「あくせくと働く」ことは、この国ではわりかし美徳的に推奨されている、気がする。が、それはいったい、誰のためか。

誰かが兵隊でいることを喜ぶのは、兵隊を使っている側の人たちだ。経営者とか。たぶん国家官僚もそうなんだろうな。自分たちが兵隊至上主義だし。

でもそれによって妄想力は退化する。この場合、妄想力とは、自主的思考と密接な関係があって、それはある程度、気ままに考えること、思考をフリー化してやらないと、型にはまった思考に凝固してしまう。

あくせく指標を胸に置いて、ちょっとあくせくしすぎだなと思ったらフリー思考の時間を作ったりすることで、兵隊に劣化していくことを防げるのではないかと思った。

ああそうか、昔学生時代、「サウンド・ニュース」って雑誌の編集部に顔を出してたんだけど、そこには、追い込まれるときまって行方不明になってしまう男の人がいた。あれはきっと、あくせくからの脱出だったのかな。自分らしさを取り戻すための失踪だったのかもしれない。

妄想力と身体性

美学者の伊藤亜紗が、

「考える」は、かなり身体的な行為である。

と、今朝の朝日新聞に書いていて、ああなるほどと思った。僕はなぜか、洗面所で歯を磨いたり顔を洗ったりしている時に、あれことと考えて思いつくことが多い。机に向かってデスクワークをしている間は、考えるというより、すでに考えた結果をアウトプットしていることが多いように思う。

とすると、こちら

妄想力ってどないしたらアップデートできるのだろう。

と書いたが、その元はこれなのだが、妄想力は身体性と関係があるのではとも思った。たとえば小自然に身をおく、オンボロ車を運転する、という行為が、妄想力を鍛えることになるかもとか。

追記:コロナ自粛は身体性を制約するから、妄想力を衰えさせるのではないか。