転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

広瀬すずの意思

広瀬すず2021カレンダーを買った。とてもいい。意思を感じる。

若くて可愛い女優だから、若くて可愛い点だけがもてはやされがちだけど、そりゃ若くて可愛いすずちゃんも好きだけど、この社会を牛耳ってきた堅固なピラミッド構造が風化・崩壊しつつある今、そうした属性ラベリングは古い。老若男女問わず、ひとはひとなのだ。逆にいうと、年配男性が長老として敬われた時代は終わった。若い女性が敬われてもいい。

女優としての広瀬すずの一番の魅力は「意思」だと思う。インスタに彼女が書いたこのコメント、すげーって思った。

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オンボロと小自然と。

ブログのサブタイトル(ブログの説明)を「オンボロと小自然と。」とした。

オンボロ:うちのクルマはオンボロでポンコツ。機械としての耐用年数をとっくに過ぎたクルマに乗り続けたらどうなるかを挑戦継続中。

小自然:都心から電車で1時間足らず、さらに自転車で20分。埼玉県央の中途半端な田舎の自宅には小さな庭があって、飼育しているメダカのほか、自然に生きる小さな生きものたちが暮らしています。

オンボロ車いじりも行うこの庭をぼくは「小自然」と呼び、ここで暮らし、考え、感じたことを中心に、これから書いていこうと思います。

環境が人をつくることをメダカが教えてくれた。

うちの庭には小さな畑やメダカ池(本当の池じゃないけど、そう呼んでいる)があり、毎朝の世話が日課だ。そこで暮らす小さな生き物から学ぶことは多い。
今朝は急に最低気温が下がった。メダカ池は外気と違って水温変化の変動が少なく、朝の最低気温にかなり連動する。しばらくは最低気温が高く、水温は10度前後だったので、メダカはエサをけっこう食べていたが、今朝は6~7度だったので、朝のエサやりは控えた。ここから春先まで、基本的にエサを与えない期間となる。
が、メダカの動きは池ごとにかなり違う。庭を掘って設置したプラスチックのヒョウタン池は、水面にメダカが一匹も現れず、どこに潜んだかまったくわからない状況なのだが、すぐ隣の睡蓮鉢のメダカは元気に水面を泳いでいる。水温他の条件はほぼ同じはずなのに、メダカの行動が違うのは、おそらく、池ごとに集団が形成されていて、その集団がメダカの環境となり、その行動を大きく左右しているものと考えられる。
これは、「環境が人をつくる」ことにもつながる現象ではないか。人はそれぞれが属する集団によって、思考や行動を大きく左右される。その人の固有性はもちろんあるだろうが、環境で左右される要素はかなり大きいのではないか。
だから、人生やり直そうと思ったら、思い切って環境を変えてしまえばいい。

肝心なのはパッションが感じられるか感じられないかだ。

パッション、といったら逃げ恥の沼田さん、「君たちパッションなんだろ!?2人はパッションなんだよね!?」というセリフが有名です。僕はこのパッションを、

抑えておくことができない情熱、自然と胸から湧き上がる想い

ととらえています。

思えば、人のすべての表現はこのパッションによって為されます。パッションが感じられるからこそ、表現物には価値があり、人の心を揺さぶり動かすのだと思います。

それは芸術作品にとどまりません。たとえば歴史的建造物。それを作った人のパッション、そこで過ごした人のパッション、それを守ってきた人のパッション。たとえば料理。料理人が込めたパッション。

誰かのパッションが感じられると、それが僕の力になる。心の豊かさとはパッションであり、力だ。

コロナ対処は政府、行政の責任であって国民、市民の責任ではありません。

国民、市民の生命、生活を守るのは政府、行政の最も重要な使命でありますから、政府、行政は責任を持って対処しなさい。国民、市民に対する正確な情報提供も含めて。国民、市民の行動を制限するのは、あくまでもやむを得ない範囲で最小限にとどめなさい。コロナに対処すべきなのは国民、市民ではなく、政府、行政であります。国民、市民の「気の緩み」だとかのせいにするのはお門違いです。

僕ら国民、市民をコロナから守る責任を持つのは、政府、行政です。僕ら国民がコロナに立ち向かうわけではないし、そもそも立ち向かえるはずもないのですから。

あまりにも当たり前すぎることを改めて書いているうちになんだか腹が立ってきた。

旨いメシは戦争を防ぐ。

先日書いた「良い食事は、強い心であるために。」の続きの思考。

かつて日本が太平洋戦争へと進んでいった過程について考えていくと、少なくともその一つの因子に「大衆化」が挙げられる。大衆化と軍国化はほぼパラで進んでいる。日米開戦前には開戦に向けて熱狂するメディアと大衆がいた。戦時中は戦争に反対あるいは非協力的な態度に非国民とレッテルを貼る大衆がいた。それは今の自粛警察、マスク警察を思わせる。

それは自主的思考を停止して世間的思考に身を委ねる行為であり、権威への付和雷同だ。とどのつまり、弱く流されやすい心から生まれる。そうでなく、強く流されにくい自主的思考を維持するためには、豊かな心が必要で、豊かな心は、文化で支えられる。僕が言う文化とは、音楽や絵画といった芸術から、文学から、それらと同様に誰かが心を込めて作り上げたおいしい食事など、人のパッションが生んだあらゆるものだ。

だから、戦争がイヤだと言うのなら、声高に叫ぶのではなく、穏やかに旨いメシを食べようと思う。

追記:ってことは飲食従事者は平和に欠かせないんだから、コロナ禍で絶えてしまわぬように支えないとだし(もちろん音楽や芝居や芸能もろもろも)、コロナ禍とはまかり間違うと戦争への道になってしまうことを自覚しとかないと。