転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

良い食事は、強い心であるために。

忙しいとつい適当なメシで済ませてしまいがちになる。若い頃、乃木坂で働いていたときは、昼も夜も近所の牛丼屋で同じカツ丼を食べていたことがあるけど、あの頃のぼくのメシは、ほんとうに貧しかった。貧しいメシを食べてると、次第に心も貧しくなっていく。貧しい心というのは、自信も主体性も自律性もなく誰かの言うなりに流されてしまうような心。上司の言うなり、ぶら下がりリーマンならそれでもいいかもしれないが、一匹狼のフリーランスがそんなことしてたら路頭に迷ってしまう。

五味太郎は『じょうぶな頭とかしこい体になるために』という本を出している。「じょうぶな頭」は僕的には「強い心」。卑屈になったり流されたりしない心。とある明治生まれの教養人の考え方を追っていくうち、「強い心」とは「豊かな心」であり、広い意味での「文化」に支えられることを教えられた。いい人に会い、いい音楽を聴き、いい絵を見て、いい文章を読む。そして、いい食事をとる。

いい食事とは、グルメで高価なものというわけではない。町の中華屋でおじさんが作ってくれる550円のチャーハンだって、いい食事だと思う。だけど、セントラルキッチンで大量生産されたメシがいい食事とは思わない。栄養摂取だけの食事は「文化」ではない。

文化は、とどのつまりは誰かの心だと思う。たとえば絵を見る。僕には絵心はないけど、じーっと見ているうちに、なんだか、それを描いた人の「パッション」が立ち上がって、僕に訴えかけてくるような気がしてくる。「おれのこの気持ち、おまえに伝わったかー」ってな。まぎれもなくこの絵は一人の人間が己の魂を込めて描いたものだということが伝わってくると、パッションすげえなって思う。音楽だって小説だって、映画だってドキュメンタリー番組だって、良いコンテンツには魂があって、それに接するとこちらの魂が揺さぶられる。それはメシでも同じことで、人が絵筆を使おうが楽器を使おうが包丁を使おうが、いいものはいいのだし、心を込めて作られた料理は芸術作品と同じ、文化だと思う。文化を食うと、心の力になる。

文化に支えられるというのは、誰かに支えられるということ。ただ食欲を満たすだけの、かきこめば済むだけのメシは、僕らの心を弱くする。僕らを誰かの奴隷にする。従業員をロボット扱いする企業経営者にとっては僕らが奴隷であったほうがいいだろう。でもそんなのはクソだ。

強い心であるためには、豊かであろう。豊かであるためには、良い食事をとろう。それは決して贅沢なんかじゃない。僕らが僕らであるためのコストはケチれない。

そして、良い食事で僕らを支えてくれる飲食従事者に、心からの感謝を。

※全面改訂:2020-11-06 16:20