転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

自分認識の多様性について

いま自分が置かれた状況をどう理解するかは一様ではない。自分のことを宇宙に一瞬存在するだけの存在と捉えればどんな喜怒哀楽も無意味に等しいが、次から次へと雑念が入り乱れる思考に沿えばまるでジェットコースターで毎日がもう大変の連続になる。それに自分と言っても一枚岩ではなく仕事人だったり家庭人だったりと複数のレイヤーの集合体なわけなのでどのレイヤーかで状況は変わってくる。経済状態というレイヤーからみれば貧困にあえぐ人であってもライフワーク・レイヤーからみればまさに希望に燃える人であったりなど。

庭の生と死。

秋から冬に向かうこの時期、自然に生きる虫たちは必死に生き延びようとする。でも、寒さに勝てるわけもなく彼らは次々と死んでいく。

庭のメダカ池にひっくり返っていたバッタをピンセットで拾い上げたら、バッタはまだ生きていて、今度はピンセットにしがみついて離れない。仕方ないので放置しておいたら、翌日にはいなくなっていた。

生きものはいずれ必ず死ぬ。おそらく虫たちにとっては生きている間だけが彼らなのであって、死んだらそれでおしまい。悲しいも何もない。死んだら天国にも地獄にも行かない。

翻って僕ら人間は、死んだらどうとか言うが。

良い食事は、強い心であるために。

忙しいとつい適当なメシで済ませてしまいがちになる。若い頃、乃木坂で働いていたときは、昼も夜も近所の牛丼屋で同じカツ丼を食べていたことがあるけど、あの頃のぼくのメシは、ほんとうに貧しかった。貧しいメシを食べてると、次第に心も貧しくなっていく。貧しい心というのは、自信も主体性も自律性もなく誰かの言うなりに流されてしまうような心。上司の言うなり、ぶら下がりリーマンならそれでもいいかもしれないが、一匹狼のフリーランスがそんなことしてたら路頭に迷ってしまう。

五味太郎は『じょうぶな頭とかしこい体になるために』という本を出している。「じょうぶな頭」は僕的には「強い心」。卑屈になったり流されたりしない心。とある明治生まれの教養人の考え方を追っていくうち、「強い心」とは「豊かな心」であり、広い意味での「文化」に支えられることを教えられた。いい人に会い、いい音楽を聴き、いい絵を見て、いい文章を読む。そして、いい食事をとる。

いい食事とは、グルメで高価なものというわけではない。町の中華屋でおじさんが作ってくれる550円のチャーハンだって、いい食事だと思う。だけど、セントラルキッチンで大量生産されたメシがいい食事とは思わない。栄養摂取だけの食事は「文化」ではない。

文化は、とどのつまりは誰かの心だと思う。たとえば絵を見る。僕には絵心はないけど、じーっと見ているうちに、なんだか、それを描いた人の「パッション」が立ち上がって、僕に訴えかけてくるような気がしてくる。「おれのこの気持ち、おまえに伝わったかー」ってな。まぎれもなくこの絵は一人の人間が己の魂を込めて描いたものだということが伝わってくると、パッションすげえなって思う。音楽だって小説だって、映画だってドキュメンタリー番組だって、良いコンテンツには魂があって、それに接するとこちらの魂が揺さぶられる。それはメシでも同じことで、人が絵筆を使おうが楽器を使おうが包丁を使おうが、いいものはいいのだし、心を込めて作られた料理は芸術作品と同じ、文化だと思う。文化を食うと、心の力になる。

文化に支えられるというのは、誰かに支えられるということ。ただ食欲を満たすだけの、かきこめば済むだけのメシは、僕らの心を弱くする。僕らを誰かの奴隷にする。従業員をロボット扱いする企業経営者にとっては僕らが奴隷であったほうがいいだろう。でもそんなのはクソだ。

強い心であるためには、豊かであろう。豊かであるためには、良い食事をとろう。それは決して贅沢なんかじゃない。僕らが僕らであるためのコストはケチれない。

そして、良い食事で僕らを支えてくれる飲食従事者に、心からの感謝を。

※全面改訂:2020-11-06 16:20

コロナ禍マッチポンプ説

安倍首相の辞任会見以後、各社報道に占めるコロナ報道が際立って減った。ちょうど第二波が落ち着いているタイミングだったこともあるのだろうし、各社とも、いつまでこの調子でコロナ報道を続ければいいのか、やめ時を図っているタイミングだったのかもしれない。各社報道で一番威張っている政治部が、久しぶりに張り切っているのだろうから、自然、社会部その他はおとなしくなる。

コロナ禍とは、メディア各社が新型コロナウィルスを「びっくり仰天ニュース」としてお茶の間にばら撒き、驚いた視聴者・読者が大騒ぎをし、それを受けたメディア各社がさらに大騒ぎをし、さらに驚いた視聴者・読者がもっと大騒ぎをするという、メディア各社と視聴者・読者共犯のマッチポンプであったか。

一気にこう騒ぎが鎮火すると、そう思いたくなる。

追記:8月20日付のメモに「いま、伝えなければいけないことは何か。知りたいこと、知らせるべきこと」とある。これはコロナのニュース報道についての批判を書いたもの。視聴者・読者が知りたいことと、報道が知らせるべきこととは違う。知らせるべきこと=伝えなければいけないことについての自覚が報道に圧倒的に足りなかったと思っている。報道各社は少なくとも結果的に「コロナ炎上」に積極加担した。最初はまだそれでも仕方なかったかもしれないが、知見が蓄積された後も同じことしてどーする。彼らがすべきなのは日々の感染者数(←不正確な表現をいつまでも使っているが正しくはPCR検査で陽性者と判定された数)を伝えることだったのか。視聴者・読者をビビらせ社会を「自粛」に追い込み必要以上にストレスフルかつ経済疲弊な状況を生み出すことだったのか。正しい現状分析とそれに基づく行動指針の提示をすべきだったのにそれをしなかった報道各社の責任は重大で、コロナ禍はマスメディアによる人災だったと思っている。それを統括して次につなげられればいいがおそらくそうはならないだろう。

意外と豊かな埼玉メシ

埼玉県は観光資源に乏しい。ざっくり言って川越と長瀞秩父だけ。繁華街も大宮、浦和と限られている。だから、県内の飲食店は「一見さん」の観光客向けにイメージで売ってがっぽり稼ぐことはできず、ほぼ住民だけを相手に商売することになる。リピーターを獲得しないとやっていけない。

埼玉県内の大半の飲食店はリピーターで支えられている。渋谷あたりにあるようなイメージ倒れのまずい店では立ち行かない。だから、意外とおいしい店が多い。ウチからクルマで30分以内、東西南北どこに向かってもおいしい店がある。立地はあまり関係なく、むしろ駅から離れたところのほうが良いお店がある。お値段もリーズナブル。在宅で埼玉のランチ生活に慣れてしまうと、たまに都内に出たときなど、昼飯はかなり悲しいことになる。

それに、埼玉は野菜の生産が盛んで首都圏の食を支えているといってもいい程だから、野菜にも恵まれている。近くにある農家の直売所で、新鮮な野菜が手に入る。野菜はともかくフレッシュに限る。枝豆なんて、地元のフレッシュなのを一度食べてみたらわかる。

というわけで、おいしいものが食べたかったら埼玉は良いところ。

庭仕事を楽しめない日々

雨ばかりの梅雨から、一転して猛暑の夏。こうなると、庭で畑の手入れだとか、クルマいじりだとかを楽しめない。メダカの世話などは毎朝30分ぐらいやってるが、それが限界。ポンコツドミンゴは各所不具合を抱えつつ、今日もノーメンテで走るのだ。大丈夫だろうか。