転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

だから僕はシラスが食えない。

一昨日朝、メダカが一匹亡くなっていた。

庭のプラ舟で育てていた、今年生まれたうちの一匹で、まだ稚魚といっていい大きさだった。綿かむり病だったので、室内の水槽に移して塩水浴にしていた。なかなか元気にならなかったが、3週間近く経ってようやく大丈夫と判断、半分水替えをして塩分濃度を薄めた矢先のことだった。水替え後、底でじっとしていたので、大丈夫かなとは思ったのだが、その翌日のことだった。

毎朝、起きると「おはよー」と水槽をのぞきこんで状態を確認していた。やつは生きようと必死だったし、ぼくもやつを生きさせようと努力した。良かれと思った水替えが、結果的にやつの命を奪った。おそらくもう一回、塩分濃度を保ったまま水替えをするべきだった。

メダカを世話したことのある人ならわかってくれると思うが、メダカは小さな体で、懸命に生きている。それは生まれたての稚魚でも、何年も経った成魚でも変わらない。というか、生き物はみな懸命に生きている。

やつはシラスよりも小さい一匹だった。やつが暮らしていたプラ舟のそばを掘って埋めてやり、弔った。

だから僕はシラスが食えない。メダカの世話を始めて以来、シラスを食べていない。

「あくせく指標」について考えた。

昨夜考えてメモに残したのだが、よく覚えていない。たぶんこういうことだと思う。

「あくせくと働く」ことは、この国ではわりかし美徳的に推奨されている、気がする。が、それはいったい、誰のためか。

誰かが兵隊でいることを喜ぶのは、兵隊を使っている側の人たちだ。経営者とか。たぶん国家官僚もそうなんだろうな。自分たちが兵隊至上主義だし。

でもそれによって妄想力は退化する。この場合、妄想力とは、自主的思考と密接な関係があって、それはある程度、気ままに考えること、思考をフリー化してやらないと、型にはまった思考に凝固してしまう。

あくせく指標を胸に置いて、ちょっとあくせくしすぎだなと思ったらフリー思考の時間を作ったりすることで、兵隊に劣化していくことを防げるのではないかと思った。

ああそうか、昔学生時代、「サウンド・ニュース」って雑誌の編集部に顔を出してたんだけど、そこには、追い込まれるときまって行方不明になってしまう男の人がいた。あれはきっと、あくせくからの脱出だったのかな。自分らしさを取り戻すための失踪だったのかもしれない。

妄想力と身体性

美学者の伊藤亜紗が、

「考える」は、かなり身体的な行為である。

と、今朝の朝日新聞に書いていて、ああなるほどと思った。僕はなぜか、洗面所で歯を磨いたり顔を洗ったりしている時に、あれことと考えて思いつくことが多い。机に向かってデスクワークをしている間は、考えるというより、すでに考えた結果をアウトプットしていることが多いように思う。

とすると、こちら

妄想力ってどないしたらアップデートできるのだろう。

と書いたが、その元はこれなのだが、妄想力は身体性と関係があるのではとも思った。たとえば小自然に身をおく、オンボロ車を運転する、という行為が、妄想力を鍛えることになるかもとか。

追記:コロナ自粛は身体性を制約するから、妄想力を衰えさせるのではないか。

広瀬すずの意思

広瀬すず2021カレンダーを買った。とてもいい。意思を感じる。

若くて可愛い女優だから、若くて可愛い点だけがもてはやされがちだけど、そりゃ若くて可愛いすずちゃんも好きだけど、この社会を牛耳ってきた堅固なピラミッド構造が風化・崩壊しつつある今、そうした属性ラベリングは古い。老若男女問わず、ひとはひとなのだ。逆にいうと、年配男性が長老として敬われた時代は終わった。若い女性が敬われてもいい。

女優としての広瀬すずの一番の魅力は「意思」だと思う。インスタに彼女が書いたこのコメント、すげーって思った。

www.instagram.com

 

オンボロと小自然と。

ブログのサブタイトル(ブログの説明)を「オンボロと小自然と。」とした。

オンボロ:うちのクルマはオンボロでポンコツ。機械としての耐用年数をとっくに過ぎたクルマに乗り続けたらどうなるかを挑戦継続中。

小自然:都心から電車で1時間足らず、さらに自転車で20分。埼玉県央の中途半端な田舎の自宅には小さな庭があって、飼育しているメダカのほか、自然に生きる小さな生きものたちが暮らしています。

オンボロ車いじりも行うこの庭をぼくは「小自然」と呼び、ここで暮らし、考え、感じたことを中心に、これから書いていこうと思います。

エリートと兵隊

エリートは兵隊になりたがる。偏差値の高い大学を出たエリートの多くは、大企業や中央官庁に就職、兵隊となって働く。

何故だろう。自主的思考の能力があるのに。彼らが兵隊となること自体に、この国に巣くう重大な問題が潜んでいるのではないか。

と思ったりして。

環境が人をつくることをメダカが教えてくれた。

うちの庭には小さな畑やメダカ池(本当の池じゃないけど、そう呼んでいる)があり、毎朝の世話が日課だ。そこで暮らす小さな生き物から学ぶことは多い。
今朝は急に最低気温が下がった。メダカ池は外気と違って水温変化の変動が少なく、朝の最低気温にかなり連動する。しばらくは最低気温が高く、水温は10度前後だったので、メダカはエサをけっこう食べていたが、今朝は6~7度だったので、朝のエサやりは控えた。ここから春先まで、基本的にエサを与えない期間となる。
が、メダカの動きは池ごとにかなり違う。庭を掘って設置したプラスチックのヒョウタン池は、水面にメダカが一匹も現れず、どこに潜んだかまったくわからない状況なのだが、すぐ隣の睡蓮鉢のメダカは元気に水面を泳いでいる。水温他の条件はほぼ同じはずなのに、メダカの行動が違うのは、おそらく、池ごとに集団が形成されていて、その集団がメダカの環境となり、その行動を大きく左右しているものと考えられる。
これは、「環境が人をつくる」ことにもつながる現象ではないか。人はそれぞれが属する集団によって、思考や行動を大きく左右される。その人の固有性はもちろんあるだろうが、環境で左右される要素はかなり大きいのではないか。
だから、人生やり直そうと思ったら、思い切って環境を変えてしまえばいい。