転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

肝心なのはパッションが感じられるか感じられないかだ。

パッション、といったら逃げ恥の沼田さん、「君たちパッションなんだろ!?2人はパッションなんだよね!?」というセリフが有名です。僕はこのパッションを、

抑えておくことができない情熱、自然と胸から湧き上がる想い

ととらえています。

思えば、人のすべての表現はこのパッションによって為されます。パッションが感じられるからこそ、表現物には価値があり、人の心を揺さぶり動かすのだと思います。

それは芸術作品にとどまりません。たとえば歴史的建造物。それを作った人のパッション、そこで過ごした人のパッション、それを守ってきた人のパッション。たとえば料理。料理人が込めたパッション。

誰かのパッションが感じられると、それが僕の力になる。心の豊かさとはパッションであり、力だ。

コロナ対処は政府、行政の責任であって国民、市民の責任ではありません。

国民、市民の生命、生活を守るのは政府、行政の最も重要な使命でありますから、政府、行政は責任を持って対処しなさい。国民、市民に対する正確な情報提供も含めて。国民、市民の行動を制限するのは、あくまでもやむを得ない範囲で最小限にとどめなさい。コロナに対処すべきなのは国民、市民ではなく、政府、行政であります。国民、市民の「気の緩み」だとかのせいにするのはお門違いです。

僕ら国民、市民をコロナから守る責任を持つのは、政府、行政です。僕ら国民がコロナに立ち向かうわけではないし、そもそも立ち向かえるはずもないのですから。

あまりにも当たり前すぎることを改めて書いているうちになんだか腹が立ってきた。

旨いメシは戦争を防ぐ。

先日書いた「良い食事は、強い心であるために。」の続きの思考。

かつて日本が太平洋戦争へと進んでいった過程について考えていくと、少なくともその一つの因子に「大衆化」が挙げられる。大衆化と軍国化はほぼパラで進んでいる。日米開戦前には開戦に向けて熱狂するメディアと大衆がいた。戦時中は戦争に反対あるいは非協力的な態度に非国民とレッテルを貼る大衆がいた。それは今の自粛警察、マスク警察を思わせる。

それは自主的思考を停止して世間的思考に身を委ねる行為であり、権威への付和雷同だ。とどのつまり、弱く流されやすい心から生まれる。そうでなく、強く流されにくい自主的思考を維持するためには、豊かな心が必要で、豊かな心は、文化で支えられる。僕が言う文化とは、音楽や絵画といった芸術から、文学から、それらと同様に誰かが心を込めて作り上げたおいしい食事など、人のパッションが生んだあらゆるものだ。

だから、戦争がイヤだと言うのなら、声高に叫ぶのではなく、穏やかに旨いメシを食べようと思う。

追記:ってことは飲食従事者は平和に欠かせないんだから、コロナ禍で絶えてしまわぬように支えないとだし(もちろん音楽や芝居や芸能もろもろも)、コロナ禍とはまかり間違うと戦争への道になってしまうことを自覚しとかないと。

自分認識の多様性について

いま自分が置かれた状況をどう理解するかは一様ではない。自分のことを宇宙に一瞬存在するだけの存在と捉えればどんな喜怒哀楽も無意味に等しいが、次から次へと雑念が入り乱れる思考に沿えばまるでジェットコースターで毎日がもう大変の連続になる。それに自分と言っても一枚岩ではなく仕事人だったり家庭人だったりと複数のレイヤーの集合体なわけなのでどのレイヤーかで状況は変わってくる。経済状態というレイヤーからみれば貧困にあえぐ人であってもライフワーク・レイヤーからみればまさに希望に燃える人であったりなど。

庭の生と死。

秋から冬に向かうこの時期、自然に生きる虫たちは必死に生き延びようとする。でも、寒さに勝てるわけもなく彼らは次々と死んでいく。

庭のメダカ池にひっくり返っていたバッタをピンセットで拾い上げたら、バッタはまだ生きていて、今度はピンセットにしがみついて離れない。仕方ないので放置しておいたら、翌日にはいなくなっていた。

生きものはいずれ必ず死ぬ。おそらく虫たちにとっては生きている間だけが彼らなのであって、死んだらそれでおしまい。悲しいも何もない。死んだら天国にも地獄にも行かない。

翻って僕ら人間は、死んだらどうとか言うが。

良い食事は、強い心であるために。

忙しいとつい適当なメシで済ませてしまいがちになる。若い頃、乃木坂で働いていたときは、昼も夜も近所の牛丼屋で同じカツ丼を食べていたことがあるけど、あの頃のぼくのメシは、ほんとうに貧しかった。貧しいメシを食べてると、次第に心も貧しくなっていく。貧しい心というのは、自信も主体性も自律性もなく誰かの言うなりに流されてしまうような心。上司の言うなり、ぶら下がりリーマンならそれでもいいかもしれないが、一匹狼のフリーランスがそんなことしてたら路頭に迷ってしまう。

五味太郎は『じょうぶな頭とかしこい体になるために』という本を出している。「じょうぶな頭」は僕的には「強い心」。卑屈になったり流されたりしない心。とある明治生まれの教養人の考え方を追っていくうち、「強い心」とは「豊かな心」であり、広い意味での「文化」に支えられることを教えられた。いい人に会い、いい音楽を聴き、いい絵を見て、いい文章を読む。そして、いい食事をとる。

いい食事とは、グルメで高価なものというわけではない。町の中華屋でおじさんが作ってくれる550円のチャーハンだって、いい食事だと思う。だけど、セントラルキッチンで大量生産されたメシがいい食事とは思わない。栄養摂取だけの食事は「文化」ではない。

文化は、とどのつまりは誰かの心だと思う。たとえば絵を見る。僕には絵心はないけど、じーっと見ているうちに、なんだか、それを描いた人の「パッション」が立ち上がって、僕に訴えかけてくるような気がしてくる。「おれのこの気持ち、おまえに伝わったかー」ってな。まぎれもなくこの絵は一人の人間が己の魂を込めて描いたものだということが伝わってくると、パッションすげえなって思う。音楽だって小説だって、映画だってドキュメンタリー番組だって、良いコンテンツには魂があって、それに接するとこちらの魂が揺さぶられる。それはメシでも同じことで、人が絵筆を使おうが楽器を使おうが包丁を使おうが、いいものはいいのだし、心を込めて作られた料理は芸術作品と同じ、文化だと思う。文化を食うと、心の力になる。

文化に支えられるというのは、誰かに支えられるということ。ただ食欲を満たすだけの、かきこめば済むだけのメシは、僕らの心を弱くする。僕らを誰かの奴隷にする。従業員をロボット扱いする企業経営者にとっては僕らが奴隷であったほうがいいだろう。でもそんなのはクソだ。

強い心であるためには、豊かであろう。豊かであるためには、良い食事をとろう。それは決して贅沢なんかじゃない。僕らが僕らであるためのコストはケチれない。

そして、良い食事で僕らを支えてくれる飲食従事者に、心からの感謝を。

※全面改訂:2020-11-06 16:20

コロナ禍マッチポンプ説

安倍首相の辞任会見以後、各社報道に占めるコロナ報道が際立って減った。ちょうど第二波が落ち着いているタイミングだったこともあるのだろうし、各社とも、いつまでこの調子でコロナ報道を続ければいいのか、やめ時を図っているタイミングだったのかもしれない。各社報道で一番威張っている政治部が、久しぶりに張り切っているのだろうから、自然、社会部その他はおとなしくなる。

コロナ禍とは、メディア各社が新型コロナウィルスを「びっくり仰天ニュース」としてお茶の間にばら撒き、驚いた視聴者・読者が大騒ぎをし、それを受けたメディア各社がさらに大騒ぎをし、さらに驚いた視聴者・読者がもっと大騒ぎをするという、メディア各社と視聴者・読者共犯のマッチポンプであったか。

一気にこう騒ぎが鎮火すると、そう思いたくなる。

追記:8月20日付のメモに「いま、伝えなければいけないことは何か。知りたいこと、知らせるべきこと」とある。これはコロナのニュース報道についての批判を書いたもの。視聴者・読者が知りたいことと、報道が知らせるべきこととは違う。知らせるべきこと=伝えなければいけないことについての自覚が報道に圧倒的に足りなかったと思っている。報道各社は少なくとも結果的に「コロナ炎上」に積極加担した。最初はまだそれでも仕方なかったかもしれないが、知見が蓄積された後も同じことしてどーする。彼らがすべきなのは日々の感染者数(←不正確な表現をいつまでも使っているが正しくはPCR検査で陽性者と判定された数)を伝えることだったのか。視聴者・読者をビビらせ社会を「自粛」に追い込み必要以上にストレスフルかつ経済疲弊な状況を生み出すことだったのか。正しい現状分析とそれに基づく行動指針の提示をすべきだったのにそれをしなかった報道各社の責任は重大で、コロナ禍はマスメディアによる人災だったと思っている。それを統括して次につなげられればいいがおそらくそうはならないだろう。