転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

どうしようもない大人は恥でも役に立つ。

振り返ると、案外と「どうしようもない大人」の存在に助けられて生きてこれたように思う。

大学に入って上京し、僕はしばらくの間、「サウンド・ニュース」の編集部に出入りしていた。バイトで行ってたとかじゃなく、ただ編集部に遊びに行っていたんだけど、それについては既述参照。

んで、そこにも書いたけど、編集部には、追い込まれるときまって行方不明になってしまう男性がいた。たぶん30代くらいの人かなあ。みんなわかってるから別段驚きもせず、「ああ、またね」的な感じで放置プレイ、やがてその人は戻ってくる。

その人の担当業務の穴を誰がどうやって埋めていたのか知らないけど、でも、編集部はいつも通りに動いていたし、かといって、その人が「いてもいなくてもいい、どうでもいい存在」というわけでもなかったと思う。

んで、そんなのある種、どうしようもない大人の行為ではあるんだけど、まだ十代だった僕は、心の中で、「あ、これでいいんだ」と妙な安心感を覚えていた、ような気がする。

その後も、僕に影響を与えた大人たちは、みな、ある意味で「どうしようもなさ」を抱えていたように思う。テレビディレクターの大先輩、片島紀男さんなんかも、歴史番組の制作にかける情熱たるや常人ではなかったけど、片島さんの思い出を語る人たちのエピソードはどれもある意味どうしようもない話ばかりで、それをみんなが楽しそうに話すのを聞いているのが好きだ。

人間は不完全。でも、それぞれがそれぞれらしく生きている。それでいいじゃん。

どうしようもない大人たちは、それを教えてくれたように思う。

※反社会的行為も「どうしようもない」が、当然それは除外します。