転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

「快適」の奴隷

とある田舎のうどん屋に行った。周囲の客は(ぼくも含めて)相対的に都市部から来ているようだ。彼らの会話から、普段は都市部にある飲食チェーン店や大型ショッピングモール、あるいは大型娯楽施設などで休日を楽しんでいることが推測できた。そんな彼らからすれば、高齢者のスタッフだけで切り盛りするそのうどん屋は低レベルのサービスに映ったかもしれない。なにしろ待たされたし、天ぷらは(たぶん地物の)野菜だけだった。

でも、何しろうどんはめっちゃおいしかったから、僕はとっても満足した。

大資本が提供するサービスは確かに快適で、しかもどこでも一律だ。それに慣れ親しんでしまうと、田舎の小規模経営の飲食店なんて勝負にもならない、かもしれない。

でもそれで良いのだろうか。僕らの財布のお金を、大資本にばかり吸い上げられてしまっていいのだろうか。そのお金は誰のためになるのだろうか。地域社会のためになるのだろうか。僕らは大資本が提供する、キャッチーなフレーズに表面上彩られたサービスに騙されているのではないだろうか。営業努力の0円スマイルにごまかされているのではないだろうか。

小規模経営のサービスには個性があって、料理人の腕や創意工夫、フロアの気配りなどに対し、直接支払いをすることができる。それは地域社会に直接お金を落とすことにもつながる。

全国一律の「快適」の奴隷になったら、大資本が生み出す「イメージ」から一生抜け出せず、脳内消費のため大資本にお金を吸い上げられることになるのではないだろうか。

ぼくは全国の独立系のおじちゃん、おばちゃん、おにーちゃん、おねーちゃんが提供する、おいしさとサービスにできるだけお金を遣いたい。