転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

暮らしの行間

働いていると当然、ToDo(もしくはタスク)を次々と処理していくことになる。ぼくのToDoは状況次第で変動するから、日毎にToDoリストを組み直し更新していく。付箋が欠かせない。

当然、ToDoを文字に書いてそれを効率的に処理することを常に考えているわけなんだけど、時々それだけでいいのかなと思うことがある。

日々の暮らしにはToDo化とは相容れない要素がかなりある。僕の場合はそうだなあ、メダカの世話とか、読みかけの本の続きを読むとか、あ、そうだと思いついて前から気になってることを調べたりだとか。締切日や優先度で順列をつけたりできない事柄の数々が日々の暮らしにはある。そういうのを軽んじていると暮らしが痩せていくような気がする。

人生の三分の一は寝てて、三分の一は飯食ったり風呂入ったり休んだりしてて、残り三分の一で働いている。つまり人生の大半は働いていないんだから、この働いていない時間、ToDo処理系とは無縁の時間をいかに豊かに過ごせるかが、ToDo処理系よりもずっと価値のあることなのじゃないだろうか。

僕らの心には言語化されない領域があるように、暮らしにも言語化されない領域=暮らしの行間があって、それが暮らしの本質的な領域なのではないだろうか。

※2021-12-29 16:57更新