転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

100%思考と自主的思考、そしてメディアの思考

世界各国のコロナ状況は概して、国民が権利を主張する傾向が強い国のほうが感染がひどいようだが、僕は彼らがある意味うらやましい。

翻って日本では、コロナに対する態度は地方によって大きく分かれる。田舎の閉鎖的な土地柄と、大都市圏とでは人々の考え方に根本的な違いがある。いま埼玉県では基本誰でもPCR検査を受けられるから、たとえばPCR検査を受けて陰性が確認できれば帰省しても問題ないだろうと考えても、一方の帰省先ではもしかしたらこう考えるかもしれない。埼玉県では誰でも感染の危険があるから無料PCR検査をしているのであり、そもそもそんな危険地域から来てほしくない。

その考え方の起源はおそらくコロナよりもずっと前、「100%」を求める考え方にあるような気がする。現実としては100%の安心、安全ということはありえないから、それは一種のフィクションだ。これまでもフィクションの中で生きてこらえたから、あたかも「100%」があるかのように思い込んでいるのではないか。

そして「100%思考」は自主的思考からは生まれない。人まかせの思考から生まれるものだと僕は思っている。誰かが何とかしてくれる。

この「100%思考」は環境に依存する。おそらく日本の近現代史のどこかの地点で生まれ、代々受け継がれてきたものだ。しかしこの思考は自分の頭で考えずともやっていけるような環境でしか成立しえないから、今後は否定され消滅していく方向にある。もしくはこの思考に拘泥し続けて日本が消滅するかだ。

最後の「メディアの思考」については、よくわからない。自分がそうメモをしたのだけど、何を指しているのかが思い出せないので、思い出したら書きます。