転がる石はまろくなる。

オンボロと小自然と。

「小自然」のすすめ(雑草のある暮らし)

わざわざ車や電車で遠くに出かけて堪能する大自然もいいが、日常生活のなかで触れられる「小自然」もいいものだ。

我が家の庭は、一見すると雑草だらけで手入れの行き届かない荒れ庭に見える。手入れが行き届いていないのはその通りなのだが、雑草だらけなのは意図的だし、できるだけ雑草は抜かずに刈るようにしている。

雑草の庭には、いろんな生き物が生息する。庭にはメダカ池(本当の池ではなく睡蓮鉢とかタライとか色々)もあるから水辺の生き物もいる。チョウチョやトンボやバッタやカマキリなどのいろんな虫、ヤモリだがイモリだがトカゲだかわからない四足歩行、カエルも大きいのからチビから色々いる。野鳥も野良猫も来る。

小さい庭だけど、生き物がたくさんいる庭で過ごすのは楽しい。カエルがぴょんぴょん飛んでる姿はかわいい。ハチもいるけれどアシナガバチは滅多なことで刺さないので友達のように一緒に庭にいる益虫だ。でっかい毛虫が畑の葉っぱを食い荒らすことがあるからそれはピンセットでつまんで退場してもらっている。

秋も深くなり、そろそろ虫たちの季節は終わる。各所でじたばたしながら少しでも生き延びようとする虫たち、やわらかいウェスの上にやっとたどり着いてそのまま息絶えたと思われるバッタなどの姿は、こんな小さい生き物でもみんな懸命に生きているんだと勇気をもらったりもする。この小さな自然環境のなかで生を全うしている彼らはぼくにとって先生でもある。

もし庭がなくても、ベランダに土を入れたプランターを置き、ときどき水をあげたらどうでしょう。きっと雑草が生え、そこに虫がやってきて、虫をねらって鳥もやってくるかもしれません。

安さを求めて貧しくなる

…という現象に僕らは陥りがちなのではないだろうか仮説。

安さは大量生産の大資本によってもたらされる。人々が安さに殺到すると大資本が潤う。大資本は潤いを独占するので、富の偏在が生じる。貧乏人が安さに殺到しているうちは貧乏人に富は配分されず、貧しさが固定される。

小資本が小資本を支える経済構造はどうだろう。家族経営の料理店でごはんを食べたり。お互いにちょっとづつ支える。大資本のドライな関係性ではなく、ちょっとウェットな関係性。

職場の「盛った関係」と飛沫とコロナ

昼食をとりに外に出た。いつものカフェに行く。先客のうち一組は職場関係とおぼしきおばさん3人組。けたたましく喋り、げらげらorくっくっと声を上げて笑う。

コロナ以後、ああした方々が突出して目立つようになった。電車でも、周囲がしんと黙りかえっていても、ああした方々はけたたましい喋りを止めない。

話の内容までは知らないが、きっとたいして面白くもない話なのだろう。喋る方もちょっと盛って、聞く方もリアクションを盛る。たいして面白くもない話に花が咲き、オーバーな笑い声とともに、マスクをしてない口から飛沫が周囲にまき散らされる。

観察すると、どうも職場の関係はずいぶんと盛られているようだ。無理にしゃべり、無理に笑う。無理してるから、どうしてもオーバーな反応になり、そのぶん飛沫も余計に飛散する。

経験則では、ああいった職場の人間関係がコロナ感染の主因ではないかと思う。職場内しかり、昼夜の会食しかり。だから、リモートを含めた職場対策が最もコロナ対策に有効のように思うのだが、誰か裏付けの調査などをしていないだろうか。

ああいう光景を見るに、コロナを機会に盛った人間関係の見直しとかしたほうが精神衛生上もいいように思うんだけど。

100%思考と自主的思考、そしてメディアの思考

世界各国のコロナ状況は概して、国民が権利を主張する傾向が強い国のほうが感染がひどいようだが、僕は彼らがある意味うらやましい。

翻って日本では、コロナに対する態度は地方によって大きく分かれる。田舎の閉鎖的な土地柄と、大都市圏とでは人々の考え方に根本的な違いがある。いま埼玉県では基本誰でもPCR検査を受けられるから、たとえばPCR検査を受けて陰性が確認できれば帰省しても問題ないだろうと考えても、一方の帰省先ではもしかしたらこう考えるかもしれない。埼玉県では誰でも感染の危険があるから無料PCR検査をしているのであり、そもそもそんな危険地域から来てほしくない。

その考え方の起源はおそらくコロナよりもずっと前、「100%」を求める考え方にあるような気がする。現実としては100%の安心、安全ということはありえないから、それは一種のフィクションだ。これまでもフィクションの中で生きてこらえたから、あたかも「100%」があるかのように思い込んでいるのではないか。

そして「100%思考」は自主的思考からは生まれない。人まかせの思考から生まれるものだと僕は思っている。誰かが何とかしてくれる。

この「100%思考」は環境に依存する。おそらく日本の近現代史のどこかの地点で生まれ、代々受け継がれてきたものだ。しかしこの思考は自分の頭で考えずともやっていけるような環境でしか成立しえないから、今後は否定され消滅していく方向にある。もしくはこの思考に拘泥し続けて日本が消滅するかだ。

最後の「メディアの思考」については、よくわからない。自分がそうメモをしたのだけど、何を指しているのかが思い出せないので、思い出したら書きます。

暮らしの行間

働いていると当然、ToDo(もしくはタスク)を次々と処理していくことになる。ぼくのToDoは状況次第で変動するから、日毎にToDoリストを組み直し更新していく。付箋が欠かせない。

当然、ToDoを文字に書いてそれを効率的に処理することを常に考えているわけなんだけど、時々それだけでいいのかなと思うことがある。

日々の暮らしにはToDo化とは相容れない要素がかなりある。僕の場合はそうだなあ、メダカの世話とか、読みかけの本の続きを読むとか、あ、そうだと思いついて前から気になってることを調べたりだとか。締切日や優先度で順列をつけたりできない事柄の数々が日々の暮らしにはある。そういうのを軽んじていると暮らしが痩せていくような気がする。

人生の三分の一は寝てて、三分の一は飯食ったり風呂入ったり休んだりしてて、残り三分の一で働いている。つまり人生の大半は働いていないんだから、この働いていない時間、ToDo処理系とは無縁の時間をいかに豊かに過ごせるかが、ToDo処理系よりもずっと価値のあることなのじゃないだろうか。

僕らの心には言語化されない領域があるように、暮らしにも言語化されない領域=暮らしの行間があって、それが暮らしの本質的な領域なのではないだろうか。

※2021-12-29 16:57更新

「安い」の罠

安いことは果して良いことなのか。僕らが「安い!」に飛びつくことで、何か大切なものを誰かに奪われているのではないか。「安い!」とは、実は僕らの豊かな日常生活を削り取っていく悪魔のささやきなのではないか。

…というのは大げさだけど。でも安いには内実いろいろあって、安くたって正当な商品やサービスのやりとりなこともあれば、そうじゃないこともあり、そうじゃないものに手を染めていくことで、目の前の安価さばかりを追い求めることで、僕らの暮らし全体が傾いていくことって、あるよね。

わかりやすい例が地元商店街の衰退とか。

心労に無理は禁物。

毎朝体重を計っていて、どんな時に太るか/痩せるかが次第にわかってきた。

重たいカバンを背負ってあちこち移動するなど体力を酷使した時に体重が落ちるのはもちろんだけど、頭もしくは心を酷使した翌朝も体重が落ちる。

頭の酷使は、緻密で長文のレポートやメールを書いた時など。

心の酷使は、取材先とデリケートなやりとりをした時など。

とくにこのところ、心の酷使つまり心労で体重が落ちることが多い。若い頃はかなり無神経だったから、相手の心情をおもんばかることもなく、心労なんて気にしたこともなかったけど、歳をとってきたせいか、さすがに無神経で通せるわけもなく、いろいろと考えてしまってかなり疲れてしまい、若い時分のような長時間労働ができなくなってきた。

というわけで、最近はあまり無理をせず、心が疲れたらよく休むようにしている。年寄りに無理は禁物。

※以前書いた「長時間労働時間」のリライトです。